【き】気づくとは傷つくことだ

 

【き】気づくとは傷つくことだ

 

『てのりくじら』という詩集があります。

枡野浩一さんという方の詩集です。さいきんはTwitterなんかでもちょっと有名な方なので知ってる人も多いのかな?
この詩集、帯の「気づくとは傷つくことだ」に、ぱしんと惹かれて、わたしの元にやってきました。

なんかテレビでやってたんだよね。王様のブランチ的な番組か、夕方のニュースの書籍紹介コーナーかなにかで。

当時まだ高校一年生だったので、母に「これ本屋さんに売ってたら買ってきて」と頼んだ気がする。

いや自分で買いにいけよって感じだけど。お金なかったのでね。今もないが。

 

そうして親の財布で買ってきてもらった『てのりくじら』は、15のわたしに衝撃!とまではいかないが、「ああ。」となにか胸にすとんと落ちたような感覚をもたらしてくれた。

それでなにかが解決したりするわけじゃないんだけど、なんか、その「ああ。」っていうのは思春期まっさかりの悩める少女には結構大事なわけで。

つっぱったような気恥ずかしさや意固地なばかりの不器用さで、親にも友人にも素直になることができない時に、ちょっとふざけた大人(帯のうしろにプリクラっぽい写真が載っていて、ネルシャツのボタンを一番上までしめて、きのこカットでちょっと含み笑いっぽい表情を浮かべている枡野浩一は相当ふざけた大人に見えた)の言うことに「ああ。」って納得するのは、なかなかのことなのだ。

こういう感覚、一番は音楽とかで感じる人が多いのかなぁと思う。ひとむかし前だとブルーハーツとかね。(世代じゃないけど、思春期に大概の人はブルーハーツ通るよね)

 

仲の良い友人とよく話す内容で、「10代の頃はほんと苦しかった」っていうのがあって。

そりゃ10代はだれしも苦しいものなのだろうけど、ほんと苦しかったねって。

なんであんなことで悩んでいたのだろうと思うよね、大人になって生きるのが楽になったよねって。

で、いつも言うのが、楽にはなったけど、なんだか感覚が鈍くなって冷たくなった気がしてかなしいねって。

生きていくためには強くならないといけないし、そのためには些細なことでいちいち心を痛めていたんじゃやっていけないから、だんだんだんだん鈍く不感になっていかないといけなくて。

それは意識したわけじゃないけど、いつの日か、あれ?昔より楽だなって思った時に、鈍くなった自分に気づくというか。

大人になるとはそういうことだと言ってしまえばそれまでだけど、時々、あの苦しくて一生懸命だった自分を懐かしむ瞬間がある。

傷つきやすくて、でもそれは心がまだ透き通っているからで。

ほんとガラスの十代って言葉は秀逸ですな、と思う。

 

胸の痛みで立ち止まって膝をついて泣いたことがある。道で。

そのすこし前まで友人たちと一緒に談笑しながら帰っていて、分かれ道でひとりになってすこしして、もうだめだってしゃがみこんで、ウッウッて泣いていた。

今考えると意味がわからないし、道で突然しゃがみこんで泣き出すとかあたまがおかしいとしか思えないのだが。

人通りのすくない道で、脇には京成線が走っていて、ゴーって通り過ぎる電車の音を聞きながら、街灯の下アスファルトにうずくまって泣いていた。

そのあとどう気持ちを立て直してもう一度歩きはじめたのか、平気な顔をして家に帰って「ただいま」を言ったのか全然おぼえていないけど、今もあの光景をどこか他人を見るような気持ちで思い浮かべるときがある。

 

そんな頃です、『てのりくじら』に出会ったのは。

冒頭の「気づくとは傷つくことだ」には続きがあって、「気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで」これでひとつの詩。

正直なところ、うしろの部分にはあんまりぐっとこなかったんだけど(だって刺青とかピンとこないからね、15歳ですし)、すきだったものをいくつか紹介しますね。

 

 

 無理してる自分の無理も自分だと思う自分も無理する自分

 

 「複雑な気持ち」だなんてシンプルで陳腐でいいね 気持ちがいいね

 

 四百字ぶんの枡目をうめるにも足らぬ三百六十五日

 

 肯定を必要とする君といて平気平気が口ぐせになる

 

 本当のことを話せと責められて君の都合で決まる本当

 

 「ま・いっか?」と他者にたずねるふりをして自問自答であきらめていく

 

 平凡な意見の前に言いわけをしておくための前置詞「やっぱ」

 

 なにごとも向き不向きってものがあり不向き不向きな人間もいる

 

 いろいろと苦しいこともあるけれどむなしいこともいろいろとある

 

 

どこか斜に構えたような茶化したような、でも真髄をついているような、いないような。

救いがあるようで、救いがないような、でもそのせいでどこか諦めがつくような。

うまく言えないけど、そういう感覚で「ああ。」と思って読んでいた。

そのほかにも、いいなと思うのとはちょっとちがうんだけど、「おお」ってなるものもあって。

 

 

 「お召し上がり下さい」なんて上がったり下がったりして超いそがしい

 

 振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ 相手はパーだ

 

 殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である

 

 

言葉あそびって言うのが正しいのかわからないけど、うまいこと言ってんなって。「おお」ってなるでしょ。なるほどなって。

「殺したいやつがいるので〜」ってのはかなり物騒だけど笑

実際そうは思わなくても、なんかスカッとした、これ読んでると。

 

そして、自分が成長すると共に胸に響く部分がすこし変わってきたりもして、それもおもしろい。

大人になってから「ああ。」って思ったのはこのふたつ。

 

 

 とりかえしのつかないことをしたあとで なおくりかえす 悪夢や夢や

 

 無駄だろう?意味ないだろう?馬鹿だろう?今さらだろう? でもやるんだよ!

 

 

つっぱるとかじゃなくて、ほんとに「後がない、やばい、どうしよう…」ってなった時に響くのはわりとシンプルなものなんだなぁと思う。

言葉は不思議。

言葉ひとつで人を死なせてしまうこともあるし、その逆、救うこともできる。

ストーリーのある小説でもなく、こんな短い詩というもので、いやもしかしたらこんな短い詩だからこそ、言葉のおもしろさ、大切さ、鋭さが伝わるのかもしれない。

 

話は枡野浩一からそれるんだけど、北村薫の『スキップ』という本の中で、言葉について話している場面があって、これは10代のおわりか20代のはじめ頃に出会ったんだけど、『てのりくじら』とはまたちがった「ああ。」があった。

うまく説明のつかなかった言葉の威力や感じていた魅力を、はじめてすこし理解できたような気がしたのがこれを読んだとき。

 

 

…そこで言葉ができてなかったら、いつか死ぬんだろうか、なんて苦しみも恐れも生まれなかったんでしょうね。

そうね。実際問題として、今、痛いとかの辛さはあるけれど、抽象的な苦しみというものはないんでしょうね。《死ぬ》という言葉も《消える》という言葉もないんだもの。わけが分からないうちに、事が終わってしまうんでしょうね。

—そう考えたら、それが楽なような気もするわね。だけど、ものを買うにはお金がいるじゃない。今、現に言葉があるっていうのは、きっと、それだけの苦しみを支払っても、それが必要だっていうことなのよ。ねえ、実際、死ぬっていうのは大変なことだけど、人間て、言葉のために死ねたりするでしょう。それって凄いし、恐いことだと思う。改めて思えば、そんな凄いものを、わたし達、日常取り扱っているのよね。

—で、そんな凄いもののうちでお気に入りが増えたら、—好きな言葉がいくつも持てたら、きっと、お金持ちになったみたいなものだと思うわよ。

 

 

人とうまくやることも、言葉を扱うことも、なんだかわからないから不安で、だからこうして上手に言葉にしてくれる大人がいると、なんとなくほっとしたりする。

自分も大人になってみて、感覚的にはわかっていていることでも、説明するのはむつかしいもん。

プロの人でやっと響くか響かないかというところじゃないかな。発信している人がいても、それにちょうどよく出会えるかはわからないし。

大人たちが「そんなくだらないことで悩むな」って言ってしまう気持ちが今ならわかる。かなしいかな、わかるようになった。

でもその当時は「くだらなくない」から悩んでしまうのだから。

みんな知ってるはずなのにね。忘れてしまうのか、それとも忘れたふりをするのか、「くだらない」と思えたら楽になることを教えてあげたくてそう言ってしまうのか。

言葉を扱うのはとてもむつかしい。

わたしも自分の言葉で感じたことを述べられたらいいのにと思うけど、人の文章を引用することでしかうまく説明ができない。

言葉を扱う仕事をしている人は本当にすごい。

 

さて枡野浩一に戻りますと、枡野さんはこのほかにも何冊か書籍を出していて、『石川くん』という本もよいです。

石川啄木の詩を、枡野さんが現代詩に訳して尚かつ(石川くんに話しかける調の)説明文みたいなものを加えているもので、石川啄木がやべぇやつなんだなってことがよくわかる本です。朝倉世界一さんのイラストもかわいくて和む。

すごいすきで周りに勧めまくってたら、だれかに貸したあと又貸しされて返ってこなくなってまた買いました。

それくらいおもしろいのでおすすめです。

 

 

何度も読みなおしてぼろぼろだけど、いまも大事にしています。